エッセイ [4] 変わりゆく台北
1999年末から2000年にかけて訪台し、台北の変貌ぶりに驚いた。前回の旅から3年が経っていたが、街も道路もとてもキレイなのだ。忠孝東路の地下鉄工事も終わり、交通渋滞もなく、歩行者の横断をさえぎる車もなく、バイクはヘルメットを被り、秩序というものが感じられた。 1990年 高雄の夕方のラッシュアワー。反対車線も占拠するバイクたち
かつての台北は、アジア特有の熱気に満ち、排気ガスと、喧騒と、したい放題の強者の街だった。それと半世紀にわたる日本植民地時代の名残。それは建物だけではなく、人びとの心にもあった。これらのことすべてがわたしには魅力的なものだった。 2000年 台北 IDEE(ファッションビル)内にあるバスケットコート [ top ] |
エッセイ [3] 新年の総統府
2000年1月1日午前5時40分、タクシーで降りたところは、暗闇の中にライトアップされた総統府に通じる500メートルぐらい手前の、10車線の道路上だった。 昇旗典礼式の解散後、まだ興奮冷めやらぬ様子の女の子たち
朝焼けのなかに国旗が掲揚されるとすぐに散会だ。ごく一部の人たちを残してサァーッと引ける。李登輝総統も掲揚を見守るだけで、挨拶も、スピーチもない。マイクでしゃべる人も演壇もない。なんともあっさりした式典だ。わたしは台湾人の結婚式の披露宴に出席したときのことを思い出した。 [ top ] |
エッセイ [2] 旅の洗濯
旅をしていて頭を悩ますことのひとつに、洗濯がある。台湾は亜熱帯気候に属する上、わたしは人一倍汗かきなので、洗濯物をどう処理するかが旅の快適度をいちじるしく左右する。
1985年 嘉義県 川の洗い場で [ top ] |
エッセイ [1] 日本語世代
台湾では、なるべく年配の人を探して日本語で話しかけてみることにしている。彼らは1945年以前に日本語教育を受けた世代。その後大陸からやってきた政府が日本語を禁止し、学校教育も北京語で行われるようになったため、日本語族のなかには自分の子どもや孫と言葉が通じず、家庭内で意思の疎通が不自由というという人も少なくない。日本語族は、家族のなかでさえ100パーセント受け入れられているわけではないのだ。 1987年、蘭嶼島で出会った雅美族(ヤミ族)の男性。この人も日本語で「日本時代はよく相撲をとった」と話してくれた [ top ] |