エッセイ [4]  変わりゆく台北

1999年末から2000年にかけて訪台し、台北の変貌ぶりに驚いた。前回の旅から3年が経っていたが、街も道路もとてもキレイなのだ。忠孝東路の地下鉄工事も終わり、交通渋滞もなく、歩行者の横断をさえぎる車もなく、バイクはヘルメットを被り、秩序というものが感じられた。

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1990年 高雄の夕方のラッシュアワー。反対車線も占拠するバイクたち

かつての台北は、アジア特有の熱気に満ち、排気ガスと、喧騒と、したい放題の強者の街だった。それと半世紀にわたる日本植民地時代の名残。それは建物だけではなく、人びとの心にもあった。これらのことすべてがわたしには魅力的なものだった。

東西に走る忠孝東路の下のMRT(新交通システム)は、かねてよりあった2本の南北を走るMRTとクロスし、乗換えが非常に便利になった。かつてはバスとタクシーが主要な交通機関であったが、今ではMRTにとって代わったようだ。地下の通路は水溜りや、亭仔脚の段差もない。屋台から出る魚や肉の臭いもない。もちろん臭豆腐の臭いもしない。IDEEという洒落たファションビルは店内に吹き抜けのバスケットコートがあって、渋谷のそれらよりも、はるかにオシャレで進んでいる。そして最も驚いたのはゴミだ。

以前は所々にゴミの入ったポリ袋が山積され悪臭を放っていたが、今ではほとんど見当たらない。「乙女の祈り」を鳴らして回ってくる収集車に、住民がゴミ袋を持って待っているではないか。こんな光景を見たのは、20年間通うわたしにもはじめてのことだった。ここで台湾の歴史についてごく簡単に触れてみたい。

台湾の近世史は外来政権による抑圧の歴史といって過言ではない。オランダ、スペイン、鄭氏、清、日本、そして光復後の国民党政権もそういえるだろう。国民党の圧政に抗議して起こった二二八事件(1947年)は2万8千余の台湾人の生命を奪った。その後も1987年まで続く戒厳令を敷き、台湾の知識人たちを粛清した(白色テロ時代といわれている)。

わたしがはじめて訪台した1982年は、蒋王朝の強権政治がまだまだ続いていた。TVでは反共宣伝を放送し、街では大陸反攻のスローガンがあちこちに見られた。そんななか人びとは、政治的発言の場もなく、圧倒的な数のバイクが赤信号をもろともせず、排気ガスも出したい放題、マスクはつけてもヘルメットはつけず、交通事故があっても我関せずと、自己目的実現のためアクセルを噴かし、商売繁盛と家族の健康を願い道教廟で一心不乱に祈る。

このような閉塞状況から脱し、最初に記したようなキレイで秩序ある街に変わったのは、1994年から98年まで台北市長を務めた陳水扁(現台湾総統)の力が大きいと聞く。彼の改革が成功した背後には、前総統・李登輝による民主化、自由化、およびそれによってもたらされた豊かな経済力があった。台湾人に生まれた悲哀を背負いながらも、無欲無私の精神で、農業学者から総統になり、独裁国家を無血で民主国家にした、“日本人の理想像”(司馬遼太郎の言)李登輝氏の功績が大きいのは言うまでもない。

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2000年 台北 IDEE(ファッションビル)内にあるバスケットコート

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エッセイ [3]  新年の総統府

2000年1月1日午前5時40分、タクシーで降りたところは、暗闇の中にライトアップされた総統府に通じる500メートルぐらい手前の、10車線の道路上だった。

いつもは激しい交通量のこの道路も、昇旗典礼式の今日ばかりは車両通行止めになっている。みな速足で総統府の方へ先を急ぐ。つきあたった前から順に道路上に座っていく。わたしは前から100メートルぐらいだろうか。そうこうしているうちに空が白んできて、李登輝総統もみえて、国旗歌が演奏され国旗も掲揚された。誰が号令をかけるでもないのに若者は敬礼しながら、ほかの人たちもまた皆厳かに国旗歌を歌っていた。台湾の苦難の歴史を考えると、わたしは胸が熱くなって写真を撮るのを忘れていた。

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昇旗典礼式の解散後、まだ興奮冷めやらぬ様子の女の子たち

朝焼けのなかに国旗が掲揚されるとすぐに散会だ。ごく一部の人たちを残してサァーッと引ける。李登輝総統も掲揚を見守るだけで、挨拶も、スピーチもない。マイクでしゃべる人も演壇もない。なんともあっさりした式典だ。わたしは台湾人の結婚式の披露宴に出席したときのことを思い出した。

台湾式の披露宴は、大勢の人たちが円卓に座って美味しい料理を、ただ食べるだけ。フルーツが出たら終わりのサイン、そして散会。誰の挨拶もない。マイクで仕切る人もいないし、もちろん歌も演芸もない。これは、「気を散らすことなく美味しい料理を一緒に食べることが一番大事」ということを物語っているのか。さすがに食を極めた華人だ。

年頭の昇旗典礼式でも、一つの国旗を初日の出に総統と同じレベルで、一緒に見るという事に一番の意味があるのだろう。こういう時に国威発揚の演説はしないのが台湾流なのかもしれない。

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エッセイ [2]  旅の洗濯

旅をしていて頭を悩ますことのひとつに、洗濯がある。台湾は亜熱帯気候に属する上、わたしは人一倍汗かきなので、洗濯物をどう処理するかが旅の快適度をいちじるしく左右する。

まずは、泊まっている場所に洗濯設備がないかを探す。1980年代後半に高雄のビジネスホテルに泊まったとき、フロントで聞いてみたら「屋上に洗濯機があるが、長いこと使っていない」という答えが返ってきた。支配人の許可を得てありがたく使わせてもらい(洗濯機には泥水がたまっていた)、屋上に干す。

お掃除担当の人に声をかけてみたりもする。台南のホテルでは雑用係のおばちゃんに頼んで、裏で洗濯機を使わせてもらった。洗剤も無料で貸してくれる。あるリゾートホテルでは宿泊客専用の設備があり、これも全部無料で使用可能だった。

ホテル内に設備がなければ、外のコインランドリーを探す。ある時、屋台で食事中のある男性に場所を聞いたら、まだご飯の途中だったのに、その人はわざわざバイクの後ろにわたしを乗せてランドリーまで連れて行ってくれた。高雄での話だ。最近の台北や台中では、一般家庭でも洗濯を外注する人が増えたからだろう、キロ単位で引き受けてくれる洗濯屋をよく見かける。朝出して夕方引き取りとか、こちらの都合に合わせてやってくれるので便利だ(一度、出した下着の枚数が足りなかったことがあったけれど)。

考えてみると、洗濯物を通じて、ずいぶんいろんな人たちとコミュニケーションをしてきたように思う。

台湾人元日本兵の取材で嘉義県の田舎に蘇鈴木さんを訪ねたときは、蘇さんの奥さんが洗濯を引き受けてくれた。聞けば家に水道は来ているのだが、洗濯には水道を使わず、用水路のような小川でするのだという。乾かしてたたんでくれた洗濯物からは、うっすらと川の泥の臭いがした。ああ、これが台湾。蘇鈴木さんはもうこの世の人ではないが、奥さんの親切と、あの臭いのことは忘れない。

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1985年 嘉義県 川の洗い場で

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エッセイ [1]  日本語世代

台湾では、なるべく年配の人を探して日本語で話しかけてみることにしている。彼らは1945年以前に日本語教育を受けた世代。その後大陸からやってきた政府が日本語を禁止し、学校教育も北京語で行われるようになったため、日本語族のなかには自分の子どもや孫と言葉が通じず、家庭内で意思の疎通が不自由というという人も少なくない。日本語族は、家族のなかでさえ100パーセント受け入れられているわけではないのだ。

そのせいもあるのか、わたしが日本語で話しかけると、うれしそうに受け答えをしてくれる人が多い。逆の経験は1980年代中頃だったと思う、台北の故宮博物院で警備員らしき人に日本語で何かを尋ねてみたところ、いかにも不愉快そうな顔が返ってきた。年配の人に日本語が通じなかったのは、このとき1回限りだ。

こんなことも思い出す。台湾訪問2回目の1984年、歩き疲れて花蓮客運総站(バス停)のベンチに座っていた時のことだ(わたしは旅の第2のモットーとして、なるべく公共の交通機関を使うことにしている)。背広を着た40歳ぐらいの中年紳士が「オジサーン、オバサーン」と声をかけながら、矍鑠とした老夫婦に近づいていく。そして3人は互いに握手しながら日本語で話している。若いのほうの紳士には訛りがあり、いかにも台湾の人らしい。いっぽう、老夫婦はゆっくりだがきれいで丁寧な日本語を話していて、日本人かなと思ったぐらいだ。

しかし老夫婦の男性のほうは口の周りを紅くして、ビンロウ(檳榔)をかんだあとがくっきりと残っている。これは明らかに中国人だ――と、当時の手帳にはそう書いてある。いかに台湾を理解していなかったかがよくわかる(正しくは高砂族[先住民族]の泰雅族[タイヤル族]か阿美族[アミ族]の方だろう)。

しばらくするとバスが来て、中年紳士は行ってしまった。話ができればと思い、バス停に残った老夫婦の方に歩み寄ると「あなたは日本人ですか」と逆に聞かれた。空港や台北ではほとんど台湾人に間違われていたのだが、日本語族にはわかるようだ。

その老夫婦は共に70歳で農業を営み、今でも日本語で話しているという。台湾語はあまり知らないし、北京語はほとんど話せない。というのもわたしたちは日本の学校を出たからだと。妹の娘は静岡に嫁ついで二人の男の子がいると、誇らしげに語る。先ほど話していた中年紳士は甥で、自分の子どもたちもみんな日本語を話すという。

そして、これから家に帰るところだからあなたも一緒に来なさいと誘われたが、丁重にお断りした。台湾を一人旅していると、家に泊まっていけと言われることが何度かあったが、酔いつぶれたとき以外は断っていた。当時は若かったせいか、遠慮があったのだろう。もし厚意に甘えていたらどんな交流ができたのだろうか。

彼らの乗るバスが来たので、お達者でと握手をして見送った。そして荷物を座席に置いた夫人がまた降りてきて、もう一度深いお辞儀をして、またバスに乗り、わたしの視界から去っていった。

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1987年、蘭嶼島で出会った雅美族(ヤミ族)の男性。この人も日本語で「日本時代はよく相撲をとった」と話してくれた

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