昭和18年 張甲四(中央、日章旗を持つ)出征時の写真

棄てられた皇軍兵士たち
―台湾人元日本兵―

写真・文 河野利彦
ver.1.22 last revised 10 JUN. 2013

昭和52年(1977年)8月、「台湾人元日本兵」のケ盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり一人500万円の補償金を要求して裁判を起こした。

かつて台湾は日本の植民地だった。日清戦争に敗れた清国から割譲されて日本の統治が始まったのは明治28年(1895年)。その支配が終わるのは半世紀後、昭和20年(1945年)のことである。台湾が日本の領土であった間、「台湾人」は日本国の臣民であった。特に、統治最後の8年間は「皇民化運動」が推し進められ、天皇の赤子〔せきし〕として国家への忠誠を求められた。そのなかには、むろん戦争への協力も含まれる。昭和12年(1937年)の日中戦争から終戦までの間に、20万7183名の台湾人日本兵と軍属が「日本人」として戦場に送られ、3万304名が戦死し(数字は厚生省による)、多数の傷病者を出した。

しかし、昭和27年(1952年)に発効した日華平和条約により、台湾の人びとは日本国籍を喪失する。それを理由に、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかったのである。

昭和49年(1974年)12月、高砂族(主に山地に住む台湾の先住民)出身の中村輝夫(李光輝)元陸軍一等兵がインドネシアのモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。しかし日本政府に動きがなかったため、戦後32年目にして上述の提訴となった。

昭和57年(1982年)2月26日、東京地裁は「同情は禁じ得ないが、国際的外交処理ないし立法政策に委ねられるもの」として、請求棄却の判決を下した。原告団は判決を不服とし、「日本には人道も誠意もないのか」と控訴する。

以下に記した台湾人元日本兵とその遺族の声は、1985年及び1995年に行った取材が元になっている。敗戦から40年。彼らは何を考えどんな生活をしているのか。日本語で語ってくれた方々の使ったことばは、なるべく生かすように努めた。また、歴史的事実の認識として疑問が残る発言も、その人の理解としてそのまま収録した。

なお、「元日本兵」という言葉から、武器を持った正規軍人を連想する人が多いかもしれないが、彼らの多くは(高砂義勇兵を含め)「軍属」という身分であった。すなわち建設工事や農作業のために動員された軍夫、通訳や警官助手、医療従事者などだが、これらも「元日本兵」に含まれていることを付記しておく。(記事中原則として敬称略)

[クリックすると拡大]

1995年、台東県東河郷にある故中村輝夫の家で 遺影と妻の正子(よしこ/李蘭英)さん
中村輝夫は1919年生まれの阿美族で、民族名をスニヨン、漢名を李光輝という。敗戦を知らずにフィリピンのモロタイ島で潜伏を続け、1975年1月に31年ぶり帰還した元日本陸軍一等兵。1979年に肺癌で死去した

[ top ]


鈴木健二/蘇 鈴木

  • 大正12年(1923年)生 嘉義県中埔郷 農業
    原告 第2回農業義勇団・南東方面艦隊第8海軍軍需部生産隊 軍属 ニューブリテン島 ラバウル爆撃により左手親指 人さし指 中指切断 および全身に破片創 *1986年3月14日逝去*

[蘇 鈴木]

「全身が破片創です。首の所は摘出せず、記念に残してあります」

勤業報国青年団の隊長からいいつけられて入隊しました。ラバウル爆撃は酷かったです。1日1千機から2千機の爆撃がありました。その合間に農作業をやっとったですよ。敗戦の時はがっかりしました。いままでの努力が水の泡となって消え、泣きました。

復員後、政府がかわったからわたしたちこそは気の毒ですよ。雇ってくれるところもないし、重労働もできないし。でも戦地での苦しみを考えれば楽な方でした。

天皇陛下は親であり、わたしたちは天皇陛下の子どもであるんだから、政府がかわったからといってもこの補償問題を早く進めてくれるのが本分だと思います。教育勅語にこういう言葉があります。朋友相信じ恭倹己れを持し博愛衆に及ぼし……。明治天皇は偉いですよ。こういうことを言って、明治時代も大正時代も発展したですよ。

日本時代には差別がありました。たとえば、台湾人の国語家庭(日本語を常用している家庭)には改姓名〔*註〕が与えられるし白砂糖が配給されたが、普通の家庭では黒砂糖でした。しかし、社会としては安定した時代でした。(日本語談)

  • *註 改姓名=1940年2月に交付された法律に基づき、漢式の姓名を日本式に変更するもの。改姓名を希望する家庭の戸長(世帯主)が申請し、家族全員が変更した。台湾においてこれは強制ではなく許可制であり、国語(日本語)を常用し皇臣民たる資質のある模範家庭のみに許された。戦争末期になると、法定の手続きを経ずに日本名を名乗る台湾人もいた。

[ top ]


李 比呂志/李 廣志

  • 昭和19年(1944年)生 台中市東区
    遺族 父・李爐は第3次南方派遣団・昭和19年マニラにて戦死

[クリックすると拡大]

「父・李爐はもしもの事があればこの写真を祀ってくれといって出征しました」

「生まれてくる子が男だったら、フィリピンの比、ルソンの呂をとって比呂志にしなさい」という戦地からの最後の手紙によって、わたしは名付けられました。母は父の遺言を守って、苦労してわたしを育ててくれました。あなたは父のない子だから、転んでも自分で起きなさいと独立心を育てられた。おじさんやおじいさんに無駄飯食いと迫害されて、肩身の狭い思いをしました。6歳の時、あまりの生活苦に耐えかねた母が首を吊ろうとしているのを目撃した。お母さんが死んだらわたしはどうなるのかと言い、思いとどまらせました。その時の苦しみを考えるといまでも涙がでます。

日本の政治家は、我々台湾人を戦争に駆り出す時、一視同仁、おまえたちも日本人であるのだからとごまかし、さんざん働かせて使い捨てにしてきた。昔、我々に信義、道義を教え、日本は武士道の国であると教育しておきながら、経済大国となったいま、知らぬ顔の半兵衛とは何事でしょうか。欧米諸国では、植民地の旧軍人に対する補償はすでに人道的に解決しています。戦争中、日本は大東亜共栄圏の盟主であると言ってきました。その盟主である日本が、3万余人の台湾人戦死者に対して補償しないのはどういうことですか。この問題を早く解決しないと、わたしはこの怨みを子々孫々まで語りつたえる。わたしは貧しくて日本へ行けませんが、もし、日本が陸続きならば皇居前でハンストをして、それでも承認が得られないならば手榴弾を投げたいくらいです。

わたしと同じ境遇の従姉が、台北で日本人相手の売春婦になりました。日本人観光客を見ると無性に腹が立ちます。

[クリックすると拡大]

李爐の遺した修了証書と写真


  • ※1982年4月1日付読売新聞朝刊「追跡 台湾の元日本兵(1)」記事によると、父が出征したとき廣志氏はまだ母の胎内にいた。裁判が地元の新聞に大きく報道されたことをきっかけに、父の戦友が訪ねてきて、その際、古い写真(上、修了証書と一緒に写っているもの)を渡してくれ、このときはじめて父の顔を知ったという

[ top ]


大石忠義/パジヨロ・カピ(排灣族)
阮曽慶雄

  • 大正10年(1921年)生 屏東県春日郷 農業
    第4回高砂義勇隊 軍属 ニューギニア

[クリックすると拡大]

「このズボンはニューギニアから帰って来た時の軍袴です。斬り込み隊でした。お国のために、部隊長が下がれと言っても下がらないで先へ進む。だから勇敢なる高砂義勇隊と言われたですよ」

出征した昭和18年(1943年)はおもしろいことがあったけれど、19年(1944年)になると戦争が激しくなって、1日中防空壕のなかにいた。飯も食わず水も飲まず、苦しいよ。ジャングルのなかを果物探して食べた、サゴヤシにココヤシ、虫も、鳥、山豚、動いているものはみんな食べた。

4年間雨のような弾を浴びても帰ってこられたの、天の神さまのおかげ。(戦後に伝道された)キリストはその頃はまだなかった、テンショウさま(天照大神)のおかげ。

アメリカの飛行機がまいた宣伝ビラで敗戦を知った。信じられなかった、わたしどもは負けていない、負けたと思っていない。でも故郷が原子爆弾で負けたから仕方がない。その時転戦部隊は暴れたよ、故郷は何をしているかとね。

若い人たちに会うと「日本人来たよ」と言うね。わたし、日本人。「日本精神」は嘘つかない。冗談は冗談、本当は本当、しっかりしているよ。

わたしの名前は大きい石。大石良雄内蔵助は吉良上野介と戦って吉良が負けたでしょう。やっぱり大きい石に弾が入らなかったですよ。

昭和18年には給料が出たが、19年からは一銭ももらってない。中村小隊長に貯金通帳預けて、小隊長が死んだからわからなくなった。わたしどものことはどうなりますか、と聞きたい。弾を浴びて帰ってきた苦しさを何とかしてくれませんか。(日本語談)

[クリックすると拡大]

奥さんと畑で。奥さんの最初の夫は第5回高砂義勇隊で戦死。戦後ふたりは結婚したが「生活、いまも苦しい」という
◆写真→ [ 畑で ]

【2010年の大石さんとの再会については [ →高砂義勇兵ふたたび ] をご覧ください】

[ top ]


今川輝三郎/余 耀輝

  • 大正6年(1917年)生 嘉義市 農業
    海軍第16警備隊 海南島 空襲の爆弾により右足大腿部切断

[クリックすると拡大]

「40年、修繕に修繕を重ねた義足です。あせもで錆びたりして、はずすと2度くらい(体温が)違います。しびれてしまうので、朝つけたら夜まではずしません。菊の紋章入りの義足ももらいましたが、ビスがだめになると使えなくなるのでとってあります」

志願でも召集でも同じことです、行かなくてはならない。現地で1ヵ月訓練を受けて、治安工作に当たりました。終戦時は目黒の海軍病院にいました、義足をもらうために。

昭和21年(1946年)3月に家に帰ったとき、家内にこう言いました。「こんな体でしょうがないから、3人の子どもはわたしが引き取る。あなたはどこへ行っても良い、自由に任せる」。そのとき子どもは7歳、4歳、2歳でした。

それから、夫婦で昼夜なく一生懸命に働きました。着物を着ると破けてしまうから、褌一枚で夜明けから働いて、節約して安い土地を買い少しずつ広げ、1町歩の土地を3町歩にまで増やしました。戦後も3人の子どもができ、家庭に対する責任は重かったです。「一旦緩急あれば義勇公に報じ……」(教育勅語) この精神・大和魂で子どもたちを育てました。人に対していばってはいけない、と。

中国石油で技師をしている次男がこの家を買ってくれて、隠居生活を楽しんでいます。でも、あと10年生きられるかどうか。日本のために働いてきたのだから、年金を出してくれるのが本当ですよ。わたしは親としての義務を果たしましたが、日本は戦傷者に対する義務を果たしていません。(日本語談)

[ top ]


洪 坤圳

  • 大正14年(1925年)生 南投県草屯鎮 農業
    原告 第2回農業義勇団・南東方面艦隊第8軍需部生産隊 軍属 ニューブリテン島ラバウル 敵機機銃掃射により右前腕部切断 ★日本名なし

[クリックすると拡大]

「いまでも皆はわたしの畑を見てこれは“日本精神”だという。負けず嫌いで勇ましいという意味だから、嬉しいよ」――煙草の葉の選別をしながら

農業専修学校を出て台中の農業試験場で2年間奉職してました。徴用されて、訓練を受けてお国のために喜んで戦争に行ったよ。農作物を栽培して海軍に供給する。敵軍は爆撃のみでラバウルには上陸しなかったので、負けたとは思わなかった。戦地では差別はなかったよ。

昭和19年(1944年)4月に畑で機銃掃射にあって病院に入って、昭和21年(1946年)3月氷川丸に乗って帰国した。日本で義手をつけてもらう予定で台湾陸軍病院で2ヵ月待機したけれど、そのまま家に帰ることになった。

利き腕を失って職にも就けない。片手で何ができるかと皆に言われたよ。五体満足な人に負けないように左手で字を練習し、義手なしで鍬も鋤も持ったし、木に登っての薪取りもやったよ。戦地ではもっと苦労したんだから。

一視同仁といわれてきたのに、天皇や日本政府から慰問の言葉が一つもないのは淋しいね。

農業学校の同期は役所の課長さんだよ。みんな偉くなっているよ。わたしはね、田舎でひっそり暮らしているよ。(日本語談)

[クリックすると拡大]

右端が洪坤圳さん。左から2人目に洪火灶さんがいる

[ top ]


洪 火灶

  • 大正6年(1917年)生 南投県草屯鎮 無職
    原告 第1回農業義勇団・南東方面艦隊第8軍需部生産隊 軍属 ニューアイルランド島カビユン 空襲の爆撃により左下腿部切断

[洪 火灶]

「裁判8年の感想をいわせてもらうと、司法の独立は嘘だ。公正じゃないよ」

昭和17年(1942年)に志願して、第3拓南農業戦士訓練所で3ヵ月の訓練を受けた。翌年3月に戦地に行き、昭和19年(1944年)10月に爆撃により足を切断。終戦の翌年に氷川丸で帰国した。

義足を作ってもらえなかったので、帰ってきた時は松葉杖だけ。周りからは、片足で農業はできないだろうと言われた。1年後に自分で木を切り抜いて義足を作ったよ。義足を外し、ひざまずいて水田の除草もしたけど、きついので農地を売って商売をした。木工旋盤屋としてソロバンを作ったり。でも詐欺にあったりして、あまりうまくいかなかったね。子どもたちはそのことをあまりよく思ってないから、いま小遣いをくれないよ。

天皇の印象は悪くないね。天皇の赤子だったけど、時世が変わったからしょうがないよ。

訴訟の前に戦傷者で相談して陳情書を日本政府に出した、台北の(財団法人)交流協会にも行った、でも回答がない。千葉さん〔千葉泰介 1913年生まれ、故人 「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」幹事として訴訟問題を土台から支えた日本人のひとり〕から連絡あって、やむを得ず訴訟を起こしたんです。日本は司法は独立している、訴訟で補償問題は解決すると。

だが、3年前に受けた判決では、ぼくたち台湾人は日本国籍を離れたから日本人と同じ法律は適用されないと。当時の補償を請求する権利は、戦争当時日本人であったとき持っている請求権だよ。ぼくらが日本国籍を失ったのは日本政府のせいで、自分の意志ではない、敗戦でなかったらいまでも日本人だよ。

日本はポツダム宣言によって台湾の統治権を放棄したけれど、人民を誰にやるのか。日本の子でしょう、誰かに養子に出す時は戸籍上の手続きがいる。日本政府はその手続きをしていない。台湾の国際的・法律的地位がまだ未定なのは、そこにも原因があるんじゃないか。(日本語談)

[クリックすると拡大]

1979年5月の東京地方裁判所・第9回口頭弁論で、千葉泰介証人により洪火灶さんの暮らしぶりが紹介された。それによると、田畑を全部売り払った後に長らく台北の小学校の小使いをしていたが、1978年にアヒルを飼う商売に転職したという
◆写真→ [ 義足をはめる洪火灶さん ]

[ top ]


鄭 武定

  • 大正4年(1915年)生 台北県中和市
    林1611部隊 陸軍工兵隊 ビルマ
    1980年、39年ぶりに帰国

昭和17年(1942年)に招集されて、戦地はビルマルート雲南龍陵。戦況が悪くなって、工兵隊長は脱出命令を出して自殺した。わたしはひとり山中に逃げたが、爆撃で倒れた家の下敷きになって背中を打撲して意識を失いました。その時ビルマの華僑に助けられてバンコクの病院に入院させてもらった。6ヵ月入院して、翌年、ビルマのもとの隊へ戻ろうと日本軍を捜しにいったのだが日本兵の姿は見えなかった。

その後菓子の製造をしながら暮らしていたが、43歳の時に友人華僑の勧めで結婚しました。こうして34年間高麗貢山で暮らす間に7人の子どもができました。終戦は宣伝ビラで知りましたが、台湾人日本兵とわかると殺されるので、そのまま福建人で通しました。

1979年に、台湾から来た康さんという娘さんを家に泊めてあげたのだが、その時わたしの事情を知って、帰国後台湾政府に調査するよう交渉してくれた。康さんのお父さんがわたしの本籍地の役所をあたってくれたがわからない。町でわたしの写真を見せた相手の老人がたまたま前の結婚の仲人で、出征後に男の子が生まれていたことがわかったのです。出征した時妻は妊娠3ヵ月でした。男が生まれたら、金太郎と命名するよういい残しておいたのが妻はそのとおりにしていた。その妻は15年前に他界、ビルマの妻も同じ頃亡くなった。台湾に息子がいることがわかって、故郷へ帰りたかった。

39年ぶりに台湾に帰った時は浦島太郎でした。帰国後は苦労したが、台湾政府が家を買ってくれたり、生活を援助してくれた。それにひきかえ日本政府は無責任だ。天皇の赤子といって連れて行ったのにいまは慰問の言葉もない。日本政府は31年目に出てきた中村輝夫にはお金を払ったのに〔*註〕、わたしには全く知らん顔だ。

[クリックすると拡大]

鄭武定(右)と出征中に生まれ39年目に対面した長男・鄭金太郎(その後、鄭再成と改名)

  • *註 日本政府は中村輝夫に対して帰還手当3万円と未払い給与3万8,279円を公式に支払った。このほかに閣僚から特別な見舞金200万円、ほかにも数百万円の義援金が渡されている

[ top ]


洪 廬嘴

  • 大正6年(1917年)生 彰化市 内職
    遺族 夫・洪添寿は第103海軍施設部軍属 昭和20年(1945年)5月11日フィリピン・ルソン島インファンタにて戦死

[クリックすると拡大]

「大黒柱をとられて苦労してきたのに、何もしてくれない日本人が恨めしい」

女の子4人を残して、大黒柱の主人は戦死しました。わたしは瓦工場の女工をしました。重くて暑い仕事です。体の具合が悪くても、子どもたちを食べさせるために一生懸命働きました。その結果がこの有り様です。心臓が悪く、頭はふらふらでひきつけは起こす……。

貧乏と食糧不足で、一人は2歳で死なせてもう一人は養女に出しました。ほかの子も小学校も出ていません。

この内職を朝から晩までやっても50元(日本円で300円)、毎日の薬代にもなりません。これも毎日ある訳ではありません。ない時は粥を食べています。こんなに苦労してきたのに何もしてくれない日本が恨めしい。

天皇陛下は海の彼方にあって、わたしがいくら叫んでも何も応えてくれません。そんな陛下とは思わなかった。

楽しいという言葉はもう忘れました。お金はないし病身だし。ごらんになって下さい。わたしの顔に笑顔が見えますか。

[クリックすると拡大]

洪廬嘴さん。内職の道具を前にして

[ top ]


張 藍好と張 甲二

  • 彰化県員林鎮
    遺族 張甲四は第15回特設勤労団に参加し、ニューギニア・ビアク島で戦死

[クリックすると拡大]

昭和18年(1943年) 張甲四(中央、日章旗を持つ)出征時の写真。母は向かって右隣、長男・甲二は後列右端

――母・張藍好の話――
14歳で結婚して、いま82歳です。6人の男の子の母になりました。次男の甲四は18歳で志願し、お国のためにいさんで出かけていきました。最期の地はニューギニアのビアク島〔戦闘は1944年5月27日〜8月20日〕です。はっきり死んだ日付はわかりません。隣部落の青年が帰ってきて消息を伝えたとき、はじめて死んだと知りました。遺骨もなく、ただ靖国神社の名簿に入っているそうです。

帰国を楽しみに待っていました。(駅が近いので)汽車の音が聞こえると我が子が帰ったのではないかと思うのですが、いくら待っても帰ってこない。いい子だったのに……毎日毎夜悲しんでいます。

[クリックすると拡大]

昭和60年(1985年) 上の写真と同じ場所で 張藍好と長男・甲二

――兄・甲二の話――
昭和15年(1940年)に国民学校の教員になりました。教員は戦争には行かずに済んだ。日本語教育を受けたわたしたちは、日本語しか話せない。そのあと大陸から来るものは何でも北京語。再教育を受けて中国の学校の教員免許をもらいましたが、教育勅語から三民主義に変わったのだから、一大変化です。頭の切り替えが大変でした。

尽忠報国、天皇陛下に忠を尽くさねばならないと教えていたのに、日本帝国の思想・政策と民主主義は180度違う。昨日までは日本人、今日からは中国人。子どもたちには「中国に還った」と教えました。日本に対する敵対行為というより、どうしたら中国に功労できるか、孔子の教育思想、修身のようなことを重点的に教えた。

わたしは、日本が台湾に授けた教育は成功したと思っています。秩序、礼儀作法、経済方面、何を見てもいいところが多い。日本の教育といまの(台湾の)教育を比べれば、雲泥の差ですよ。

中年以上の人は東条英機を皆嫌うけれど、天皇を嫌う人はいない。まだ尊敬されてます。戦争責任は海軍や陸軍にあって、天皇にはない。日本人で嫌われていたのは、横暴でわがままですぐ殴る当時の警察。終戦後、横暴な警察だけはつるし上げをくったが、他の日本人にはそんなことはなかった。台湾人の保護を受けて、朝鮮や中国の在留邦人に比べれば幸運でした。いまでも教え子が来たら歓迎します、交流ありますよ。(日本語談)

[ top ]


ケ 来添

  • 大正4年(1915年)生 屏東県内埔郷 農業
    陸軍東部86部隊 上海 捕虜監視員 昭和19年(1944年)上海陸軍射撃場の建設現場での機銃掃射により左下腿部切断

[クリックすると拡大]

「右下の賞状をもらったのはわたしだけです」

足が不自由なので、昭和22年(1947年)に畑で転んで右腕を石にぶつけて傷口が化膿して、切断しました。医者は余りの貧乏をみかねて、お金をとりませんでした。

わたしは畑の草取りだけ、妻は日雇いに出ていました。みんなが同情して田畑の水源管理人にしてくれました。それでも月300元(1,800円)です。田畑もすべて売ってしまいました。近所の人や親戚からの援助でようやく食べてこられました。

戦前、わたしは昼に農事実行組合の書記、夜は国語講習所の講師をしていました。俸給は65円もらってました。日本時代はよかったです。差別もなかった、日本人の言うことをよく聞く人には、ですけれど。士官は部下をよくかわいがってくれました。

日本の病院を退院する時に千円もらったけれど、ひと月で食べてしまいました。米一斗が200円の時代ですから。敗戦だったからしょうがない。日本は悪くない、怨みはありません。日本の経済がよくなったら慰問金を送って下さい。わたしは戦傷でまだよかったが、戦死に補償がないのは気の毒です。

日本は原子爆弾に負けました。もし、原子爆弾さえ落とされなかったら必ず勝っていました。(日本語談)

[クリックすると拡大]

「朝食のあとは1日中この椅子に座っています」

[ top ]


山口達男/バッサオ・ワタン(泰雅族)
張 金章

  • 大正14年(1925年)生 南投県仁愛郷 農業
    昭和18年(1943年)第1回特別海軍志願兵 軍人 駆逐艦

[クリックすると拡大]

「天皇陛下は国家の王様、尊敬している」

戦前、教師と警丁〔警官の助手〕を拝名していたが、兵隊の方が好きだったし、尊敬されるから天皇陛下のために志願しました。6ヵ月の訓練のあと、南方のフィリピンやコレヒドールに行き、長く艦隊にいた。飛行機が宣伝ビラをまいたので終戦とわかりました。

敗戦後、バターン半島で3ヵ月収容されてから高雄に着いた。高雄からここまで帰る旅費も食料もないので、大陸の兵隊に着物や時計や靴を売ってようやく帰って来た。家に着いたら、1ヵ月前に母が死んでいました。父はわたしが5歳の時「霧社事件」〔*註〕で死んだので、わたしは兄夫婦に育てられました。その兄も第5回の高砂義勇兵としてニューギニアで行方不明。帰国後1ヵ月して遺骨が届いたけれど、砂や石が入ってただけで本当の遺骨と違う。わたし、捨てたよ。

戦後も苦しいのには変わりない、自由にはなったけれど、生活の基礎がないからね。

日本人とは何年も一緒に暮らしました。総督府は良いけれど、山に入ってくる警官は悪かった。派出所を建てるために木を切らせて運ばせる。5人家族なら5本のヒノキを今日中に持って来いといわれる。それから週1回宴会をするのだけれど、その食料を調達させられました。道路工事や運搬の義務が多かったので、自分のところの粟や芋を作る暇もなかった。1日義務にでないと、殴られたうえに3日義務に出される。日本の教育や政治は良かったけれど、各集落の警官が悪かった。だから霧社事件が起こったんだ。巡査は出征兵士の奥さんをやって、沢山あいのこ出来たよ。巡査がやらせろと言ったら怖くて断れないよ。

わたしは25年前からカトリックです。良い話があってとてもためになる。山の人、宗教のない昔は敵・味方に分かれて首切りなんかもしてたけど、いまはみな兄弟で、往来もできれば取引もできる。日本時代は天照大神だったが、説教もなくただお参りするだけで意味も何もわからん。(日本語談)

[クリックすると拡大]

「写真が傷んだので4年前に絵を描いてもらいました。かっこいいでしょう」

  • *註 霧社事件=1930年10月27日、霧社公学校(現・南投県仁愛郷)の式典に集まった日本人139名が山地先住民・泰雅族に殺された抗日蜂起事件。強制労役や日本人との婚姻問題など複数の要因が重なって決起に至ったもので、日本の警察と軍隊はおよそ2ヵ月かけてこれを鎮圧、644名の死者を出した。翌年の報復事件(第2霧社事件)を含めると約千名が犠牲となり、生き残った200余名は山から下ろされ川中島(現・清流)に強制移住させられた

[ top ]


長寅健一/張 長寅

  • 大正15年生 雲林県大埤郷 無職
    原告 海軍第8軍需部生産隊 軍属 ニューブリテン島ラバウル 空襲の機銃掃射により右前腕部切断 兄はニューギニアで戦死

[クリックすると拡大]

「戦前、わたしの家はこの地方で一番大きな用品雑貨屋をやっていた。水田も10町歩あり、国語家庭でもあった」

熱地農業技術員養成所の1回生だったが、ラバウルでオーストラリア軍の機銃掃射にやられて、右腕を失った。戦地では上官が、もし死んでも家族は国が面倒見るから安心しろと言ってたよ。

こんな体になって、人生観が変わった。希望も全部なくなり、仕事をする気力も失って…… 終戦後、帰ってきたときにはまだ財産があったけれど、土地改革法で田んぼは小作人に払い下げられ、もらった債権も6年で食いつぶし、次に店を売った。禁じられてる玉突きの店をやったりしたけど、ここ10年は売る物もなくなり、友人と姉の援助で暮らしている。

出征前に約束していた女性は他の人と結婚してしまい、その後の結婚話は全部断った。いまは内縁の妻と娘と息子がいて、生活はとても苦労している。籍を入れない理由? ……前途がないからね。

天皇には何の感情もない。わたしにとっては死んでいるのも同じ。天皇のため、日本のために負傷してきたのに何の面倒も見てくれない。もう日本語なんてしゃべりたくないくらいだ。補償してくれるんだったら、早くしてくれ。生きているうちにもらえなかったらしょうがない。誠意がなければブーハット(無法度)だね。(日本語談)

[クリックすると拡大]

「ずっとこの腕を隠して生きてきた」
◆写真→ [ 少年時代 ] [ 熱地農業技術員養成所 ] [ 家の片隅に飾られた写真 ]

[ top ]


王 朝坤

  • 明治36年(1901年)生 南投県埔里鎮 農業
    昭和12年(1937年)に軍夫として上海上陸作戦に参加 軍属
    長男・王献臣は特設勤労団員として昭和19年(1944年)ニューギニア・ビアク島で戦死

[クリックすると拡大]

「わたしは明日かあさっていなくなる(死ぬ)が、天皇陛下に忠誠を尽くしました」

役場の半強制で召集されて小行李(しょうこうり/弾薬運び)として日支事変の上海上陸作戦に参加した。3、4回手柄を立てて勲八等瑞宝章をもらった。2年戦争に参加して、負傷し九州の小倉病院に4ヵ月入院し、後送された。勲章は二二八事件〔*註〕のころに捨てた、書類も捨てたよ。

戦争はいかん。人が死んで、戦傷して、こんなことはいかん。かわいそうだ。

天皇陛下は50年間台湾を守った、人民を保護した。本当にありがたい。日本精神よかった、戦争も強い、日本人の印象はいまでもよい。いまの中華民国もよい。蒋介石は日本の罪を免じた。ありがたいことです。

息子の献臣は昭和18年(1943年)に戦争に行き、いまでも帰ってこない。戦死の通知はもらってない。日本帝国には、子どもを連れて行った責任がある。わたしは年を取っても恩給がない。補償は、紙に書いているだけで実行してくれない。日本の失敗は、報いてくれないことだ。補償をすると損をするというのは間違いだ。

[クリックすると拡大]

「桃園の中学を出て、仕事は百姓、田んぼを作ってた」――補正(村長)や農業実行組合の組長を務めたこともある王朝坤さん。もうけた五男三女のうち長男だけが帰らない
◆写真→ [ 素足 ] [ 肖像画 ]

  • *註 二二八事件(二・二八事件)=1947年2月27日夕刻に起きた台北における闇煙草の取り締まりをきっかけに、翌28日に発生し台湾全土に広がった民衆の抵抗事件。戦後台湾に入ってきた国民党政府への不満が爆発した偶発的な事件で、国民党軍の報復的鎮圧により2万人を越える本省人知識人や芸術家、学生らが命を落とした。犠牲者の人数はいまだ特定されていない。事件をきっかけに発令された戒厳令は1987年まで継続した

[ top ]


楊 周球

  • 明治39年(1906年)生 彰化県渓湖鎮 内職
    遺族 長男・楊碧年は第19回特設勤労団の軍属としてニューギニア・マノクワリで戦死 ★日本名なし

[クリックすると拡大]

「生きているうちにもう一度あの子の顔が見たい」

わたしの家は製糖会社の貧しい小作で、10人きょうだいの長子だった息子は日本語ができなかったのですが、部落書記に勧誘されて入隊しました。飼っていた牛の面倒をよくみて、兄弟げんかはしないで仲良く畑仕事をするように――そう、涙ながらに言い残して。わたしは涙は見せないようにしました。

入隊の3日後には、何の訓練も受けぬまま高雄から出港したそうです。19歳でした。

3ヵ月後に代筆の手紙が来たけれど、住所ははっきり書いてない、海外だというだけでどこへ行ったのかもわからない。その後も2、3回便りがありましたが、わたしも文字が読めないし、どうにもなりませんでした。

一緒に出征した隣村の人が戦後遺骨を持ってきてくれて、はじめて息子の戦死を知りました。髪の毛と爪と小指が入ってました。それ以前に20数円が戦地から届いていて、大切に終戦後まで残しておいたのですが、皮肉なことにあの子の葬式代に消えてしまったのです。

おじいさん(夫)は体中病気です。わたしは左眼を失明して、右眼も顔の輪郭がわかる程度。いまは自炊しながら鶏の羽の選別の内職をしているけれど、1日やっても醤油1本買えるか買えないかのお金しかもらえません。

死んだ者は死んでしまった。40年も経ってしまっていまさら何を言ってもはじまらないけれど、息子も中村輝男さんのようにひょっこりジャングルから出て来はしないか、などと思ったりします。

わたしは年寄りで話が下手で、何を言っていいのかわかりませんけど、日本人に良心というものがあるのなら、良心にのっとった行動をしてください。

――通訳者による補足――
この村一帯はかつて日本の製糖会社の土地でした。こういう寒村では珍しくないことですが、子だくさんで、子どもは誰も学校に行っていない。だから日本語も話せないし、字も読めない。楊周球さんは、日本に天皇がいるということも知りません。日本人は村人の無知につけ込んで、強そうな若者を力仕事のために連れて行った。命令されて行っただけで、愛国心とは無関係です。

息子さんの仕事は土方仕事、飛行場作りなどの敷設部隊です。軍隊の最下部の軍属、クーリー(苦力)だから訓練もいらなかったのでしょう。

[ top ]


蔡 順庫

  • 大正11年(1921年)生 嘉義市 露天商
    第23回勤労団 軍属 ハルマヘラ島 兵器廠 機銃掃射で右大腿部貫通創

[クリックすると拡大]

「日本精神はバカ精神だ。バカ正直だ。だからこんなひと月千元のあばら屋に住んでるよ」

馬場中隊長にはずいぶんいじめられた。負傷してるのに薪割りをさせられたよ、飯を食べるなら仕事をしろとね。軍刀で尻をなぐられたしビンタもくらった。いま寒くなると傷跡の筋が引いてそれが頭にまできて、走り回る痛さだよ。終戦の時、かわいそうなもんだよ、空襲でもだいぶやられたよ。

戦争に行く前は、台湾銀行で給仕をしていた。帰ってきてまた雇ってもらえるかと思ったが、足を負傷しているのでもうだめだった。重い仕事ができないから、レンコン茶の露天商をしている。

「新高(にいたか)の山のふもとの民草も 茂りまさると聞くぞうれしき」――明治天皇御製、いいでしょ、この言葉。いまでも好きでよく覚えているよ。昔の天皇陛下は臣民を愛しとるんですよ。日本を統治している尊い偉い人間だった。でも、いまは何も思わないよ、国が違うんだから。 戦後『明治天皇』という映画が来たが、天皇陛下が登場したら皆一斉に起立した。外省人はおかしくてたまらなかったでしょう。

いじめられたことは、軍律だからしょうがない。こんなに苦労しているんだから日本はわたしの生活を助けてくれ、慰問してくれと言いたいが、誰に言っていいのかわからない。(日本語談)

[クリックすると拡大]

太ももにある貫通銃創の傷跡。「この怪我じゃ子どもはできないと思ったから、結婚は30歳。でも毎年できて5人だよ。金がないからまだ3人は結婚していない」

[ top ]


湯川孝二/ユウスウグ(鄒族)
湯 保福

  • 大正8年(1919年)生 嘉義県呉鳳郷 農業
    第5回高砂義勇隊 軍属 ニューギニア、ワタン半島

[クリックすると拡大]

「高砂族から首狩りをやめさせたことは、日本が入った一番良いことだった」

志願して、南海派遣《猛》第2689部隊に入り、工兵として道と橋を造りました。男と生まれた以上は兵隊に行かなければならないので、この部落では皆争って行ったですよ。高砂兵180人中、帰ってきたのは4人だけ。それくらい戦地はひどかったですよ。戦死した人の髪の毛と爪を持って帰りました。

せっかく遠いところに行ったのに、負けたのは哀しかったよ。戦死した戦友のことを考えたら涙がこぼれて、この歌を思い出すよ。 ♪歓呼の声や旗の波 「あとは頼む」のあの声よ これが最期の戦地の便り……(皇国の母)

戦後、食べるものなかった。二二八事件のとき、嘉義県ひどかった、国民党とずいぶん戦争したよ。一生懸命仕事して、3、4年ではじめて楽になった。日本人は差別もしたけど、いいこともしたよ。水田、孟宗竹、麻竹、油桐、内地桐、杉、山茶花、棕櫚、みんな日本人の指示で植えた。いまはこれで食べていけるよ。

天皇陛下ですか。んー、当時はどこへ行っても神様のように拝んでいた。いまの天皇陛下はどんなことをするのかわからない。いまは選挙で選ぶんですか?(日本語談)

[クリックすると拡大]

政府に言いたいことは、「その時代(義勇兵時代)の俸給をもらいたい。貯金通帳はもうなくしたけれど、番号は覚えてる」

[ top ]


松下和子/ロビ・ロバオ(泰雅族)

  • 昭和17年(1942年)生 春陽村
    遺族 父の松下政治は第3回高砂義勇隊に参加しニューギニアで戦死 ★漢名不明

[クリックすると拡大]

「母(写真左)の生活を見ていると苦しみがよくわかります」

父はわたしが2歳のとき戦死し、母は戦後ケガして帰ってきた兵隊と再婚しました。粟ご飯と芋で大きくなりました。学校へは靴がなくて裸足で行った、着物は固い麻でつくったもの。

本当の父のことは憶えてないけれど、一緒に撮った写真あります。

[クリックすると拡大]

泰雅族の民族衣装をつけた松下和子さん

[ top ]


吉川正義/ワタン・ノウミ(泰雅族)
何 義春

  • 大正14年(1925年)生 南投県仁愛郷大同村
    歩兵第47連隊第4中隊 軍人 インドネシア・チモール島

[クリックすると拡大]

「いまでもやはりぼくたちは帝国軍人だと、そうしゃべってるよ。周囲の人に『帝国軍人来たぞ』と言う」

昭和17年(1942年)、国のために仕事をしようという大きな気持ちで志願したよ。この部落からは一人だけで、(霧社からは)4名出征して3名が生き残った。

香港、ビルマ、ニューギニア、ソロモン島を経由してジャワに着いたが、戦闘はなく、仕事は警備。でも爆撃は受けたので大勢死んだ。わたしらは負けるとは思ってない、一生懸命仕事やってたよ。

終戦のときチモール島から退却してビルマに行ったが、中隊長は「闘いはこれからだ」と行軍した。フィリピンに来て戦闘続けたね。最後は戸田侍従〔戸田康英 1911-77〕がフィリピンに来て玉音放送を流したので、それで信じた。中隊長が「いたくシンキン〔宸襟〕を悩ましている天皇陛下に捧げ銃!」と号令をかけて終わり。死んだ兵隊かわいそうね。貯金通帳も軍票も、中隊長に言われて全部燃やした。捕虜にはされなかったが、ジャワのスラバヤで5ヵ月雑用して台湾に帰った。

帰宅したら父親は生きていたけど、食べ物ない。ずっと芋と粟、そういう生活長かった。病気になると歩いて薬をもらいに行ったよ。

日本は厳しく教育したため、山の人も良くなった。首取りばかりやっていたのを、天皇の名前を使って治めてしまった、ありがたいよ。山地の人は正直、教育された通り信じる。軍隊でも日本人と同じ飯、同じ教育、差別はなかったよ。天皇への崇拝の気持ちは残っている。テレビ見てるから、もう神様とは思わないが。日本に行ったことあるけど、宮城礼拝をして帰ってきた。

(軍人になったのは)仕方がないもん。補償金もらって、ああ解放されたんだなと、そういうふうに思いたい。(台湾人元日本兵は)年取ってどんどん亡くなっているから、補償は速やかにした方がいい。(日本語談)

[クリックすると拡大]

「日本は親の国、なのに(補償金を払わないことで)汚名を子々孫々残したくない」

[ top ]


加藤直一/パキシャン・ナオ(布農族)
高 聰義

  • 大正9年(1920年)生 南投県仁愛郷大同村 元郷長・県会議員
    旧台北帝大農林専門部を出て総督府殖産局農林課に勤務 昭和18年(1943年)に志願し海軍特別陸戦隊の軍属としてニューギニアに出征 ウエワク湾で実弟の乗った船が沈没するのを目撃 1946年復員
    1981年10月に補償問題の運動を知り、翌年台湾で訴訟代表後援会を組織し会長となる 1984年9月、東京高裁での第9回公判に証人として出廷 *1999年4月逝去*

[八・八提訴十周年市民集会で壇上に立つ高聰義氏]

八・八提訴十周年市民集会で壇上に立つ(1987年8月8日、東京・主婦会館)

「日本人と同等の補償を、日本人の手で渡してください」――これが弁護団が主張する2原則です。補償が下りても、台湾政府の代理人が来て渡したのでは気持ちが違うでしょう。中曽根康弘首相〔1918-〕、有馬元治議員〔台湾人元日本兵等の問題懇談会会長/ 1920-2006〕、山中貞則議員〔同懇談会会長/ 1921-2004〕には心から感謝しています。

台湾での後援会会員は5、6名逃げたけれど、来る者は拒まず、去る者は追わない。みんな逃げて一人になっても、仕事は続けます。

たくさん部下を殺した、死んだ人たちを犬死ににしたくない。戦争は間違いだし、あってはならないことだけど、でも間違いがあってよかった。なければ日本はこれほど繁栄していない。

ぼくはいまでも自分を日本人と思っている。日本人の中国人なんです。日本はわたしの親・わたしの国であり、わたしを日本人として育てた国だから。台湾がこんなにうまくいって、発展したのは日本の教育のおかげ。台湾は昔の日本以上に愛国教育をやっているが、ぼくはあんまり……

バターン半島、コレヒドール陥落でも高砂義勇隊は命を捨ててやりました。高砂義勇隊でなければ落ちなかった。(真珠湾攻撃で)「ニイタカヤマノボレ」と言ったけれど、結局、新高山〔現在の台湾の玉山。当時の日本国最高峰〕のふもとに住んでいる人たちの補償問題をしないことには、何のための「ニイタカヤマ」だったのか? 何ゆえに「ニイタカヤマ」を使ったのか? (日本語談)

[クリックすると拡大]

「日本に4回行ったが全部自分の金、人に迷惑はかけてない」(1985年)

[ top ]


南郷元孝

  • 大正6年(1918年)生 台北市 日本語学校長
    海軍第3艦隊第5水雷戦隊 軍人 ★漢名は未公表

[クリックすると拡大]

「戦争は負けると前々からわかっていた。どんな負け方をするか、負け方の問題。ともあれ、残念だったことは間違いありません」――海軍中尉南郷元孝

国語家庭ではありませんでしたが、小学校から日本人と一緒に教育を受け、台北一中に入学。昭和17年(1942年)、広島文理科大学〔現広島大学〕2年のとき召集され海兵として3ヵ月の訓練ののち中尉に任官されました。

駆逐艦《朝顔》《春風》《夕凪》、重巡《妙高》、駆逐艦《五十鈴》、空母《飛龍》、戦艦《金剛》と渡り、駆逐艦《浜風》に乗っているときこれが轟沈し〔1945年4月7日13時頃。戦艦大和が沈没した日本海軍最後の艦隊行動〕海に投げ出されて18時間漂流しました。その間に、母親に戦死公報が送られたほどです。幸い別の駆逐艦《雪風》に拾われて《初霜》に渡され、終戦は佐世保の船の上で迎えました。みんな泣きましたよ。

四大節〔四方拝1/1・紀元節2/11・天長節4/29・明治節11/3〕には海軍で外地の者はどこにいても、午前10時15分に宮城礼拝をします。10時には当直士官が一種軍装で集合をかけ、号令とともに戦闘配置につき、ラッパが鳴ると気を付けをして東の方角を向き敬礼する。なにもない東の空をただじっと見ている。こんなことをしてたんですからね。戦友は、弾に当たって死ぬときも「天皇陛下万歳」と本当に叫んでいました。

いま、天皇は〔神ではなく〕人間だと思います。わたしは個人的に、天皇に戦争責任はないと思う。責任があるのは軍閥です。

俸給は海軍中尉が140円、大尉は180円が郵便局に振り込まれましたが、それが終戦で支払い停止になったものだから、台湾人が騒ぎ出した。騒いだのは戦死者(遺族)と傷病兵で、我々帰還兵は騒がない。でも中村輝夫に政府がお金を払ったことからすれば、責任を取る気はあるはずだと思います。

戦後の苦労としては……精神的な悩みが深かったですね。自分のいままでやってきたことが正しかったのか。これはわたしだけではない皆のジレンマだと思います。人を殺し、殺されて……現在の自分を発見するのに半年くらい時間がかかりましたよ。戦争に対しては「嫌い」という感情を持つというよりも、考えさせられますね。

戦後は教育畑に入りました。まず市役所の教育課長となり、その後は国立師範大学や陸軍の政治作戦学校日本語科、台湾大学、法務省司法官研修所に勤めて台湾の立て直しに努力しました。教師としては、日本教育のいいところを取り入れました。教師が献身的だとか、法令や校長の命令に服従する、中心思想(日本植民地時代でいえば天皇崇拝)のある教育です。逆に見習わなかったのは学生を酷使すること。便所掃除や草刈りはやらせず、体罰も禁止です。(日本語談)

[クリックすると拡大]

「短銃と軍刀は二二八事件のとき淡水河に捨てましたが、この“恩賜の煙草”は記念にとってあります。まだ香りはありますよ」

[ top ]


追記

1985年8月26日に東京高裁で下された判決は、控訴棄却という無情なものだった。だが判決のなかで裁判長は「原告らがほぼ同様の境遇にある日本人と比較して著しい不利益を受けていることは明らか」とし、「戦死傷の日から40年以上が経過している以上、早急にこの不利益を払拭し、国際信用を高めるよう努力することが、国政関与者に対する期待であることを特に付言する」と、国の責任を指摘した。

訴えを退けながらも補償立法を求めたこの高裁判決を受け、国は1987年に「台湾住民である戦没者遺族等に対する弔慰金等に関する法律」、翌88年に「特定弔慰金等の支給の実施に関する法律」を制定。日本の軍人・軍属として戦没したり戦傷病者になった台湾住民及びその遺族は、1993年3月31日までに権利請求することにより一人200万円の弔慰金が支給されることとなった。

原告らは高裁の判決を不服として上告したが、「補償問題は立法政策の問題」とする司法判断は変わらず、最高裁は1992年4月28日に上告を棄却して、原告側の敗訴が確定する。

15年の裁判は長く、1984年にはケ盛原告団長と全永福(竹中武男)原告、1986年には鈴木健二(蘇鈴木)原告と秋本英男弁護団長が世を去った。運動の柱となっていた市民団体「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」は1992年7月に解散。台湾紅十字会と日本赤十字社を通じて最終的に29,645名の台湾人に総計592億9,000万円が支払われ、上述の議員立法による補償は完了した。

[クリックすると拡大]

原告のひとりだった全永福(竹中武男)さん一家。右端は日本人警官。一家には4人の子どもがいたが、食糧事情が悪く戦争中に2人を亡くしたという

◆  ◆  ◆

取材させてもらった30余名の台湾人元日本兵の遺族や傷病兵のうち、印象に残った人を挙げてみる。まずは、洪坤圳(こう・こんしゅう)さんである。彼は「日本精神」とあだ名されていたが、「日本精神」とは勤勉で正直で責任感が強く、約束を守ることだという。戦後の反戦平和教育を受けていたわたしは、植民地には抑圧や強制しかなく、いまの韓国や中国のように台湾のほとんどの人たちも反日なのだろうと思っていたので、大変な驚きだった。

洪さんは復員から2年後に結婚し4人の子どもに恵まれた。そういう洪さんの生きざまを見て育った子どもたちも真面目で、いまは大家族に囲まれて幸せな老後を送っている。つらい話が多かったなかで、洪さんの人柄やその後の人生はわたしの救いであった。

台湾にある「日本精神」が気になって、10年後の1995年にもう一度彼を訪問した。眉間のしわは前にもまして深くなっていたが元気で、詳しく話が聞けた。洪さんは10人兄弟姉妹の3番目で、国民学校卒業後16歳で草屯農業専修学校へ入学する。ここは当時でも珍しい学寮(全寮)制で、日本人と共に団体生活を送った。日本人の先生はみんないい先生で差別もなかった、と言い切る。寝食を共にし、個人よりも「公」を大事にする日本精神が身についたのだという。ここまでがんばってこれたのは、学寮生活で鍛えられたおかげだと。

[クリックすると拡大]

払い戻しのない軍事郵便貯金の通帳を見せる洪坤圳さん(1995年)。その後こうした「確定債務」はわずか120倍の金額で払い戻されることになった

次に挙げたいのは、台湾で裁判を支援していた高聰義(高聡義/こう・そうぎ)さん。高砂族で最初に会ったのはこの方だった。あの山深い霧社の、昔風の日本家屋を訪問したとき、彼は奥さんがいま台北に行って不在だから、と自ら日本風の家庭料理を作ってくれた。そのなかにあったキュウリの酢もみは甘すぎて、生まれてはじめて口にした味付けだったが、遠来の客のためにわざわざ台所に立ってくれた高さんの好意は忘れられない。もちろん、感謝しつつ全部食べた。

高砂族の人たちは純朴で、価値観や死生観が日本人と似ている。かつての武士道にも似た、竹を割ったような性格。彼らを知って、心が洗われるような思いだった。高さんが「日本はわたしの国なんだ」と言っていたことを思い出す。1987年だったか、彼が裁判の関係で来日した折、靖国神社の訪問予定があると聞いて大村益次郎像の下まで会いに行ったこともある。靖国の中門鳥居は台湾ヒノキだそうで、「これは台湾から切り出したものです」と言っていた(あとで知ったが、1975年に東京の材木商が奉納したという)。

娘さんの家が台北の内湖にあり、そこにお邪魔した際に鱈の煮付けを出してくれたこと。また、霧社では夜の更けるまで酒を酌み交わし、戦後間もない仁愛郷長時代に、高砂族の頭目たちに酒を飲ませて懐柔した話を聞かせてくれたこともあった。


◆  ◆  ◆

この取材は、まったく個人的に始めたものである。週刊誌で元日本兵たちの起こした訴訟の記事を読んだのがそもそものきっかけだった。

政府は日本人の遺族や戦傷者には相応の補償をしているし、欧米の例をみると、米国はフィリピンに、英国はインドに、また敗戦国である西独やイタリアも旧植民地の軍人、軍属に対して、国籍に拘わらず、ほぼ自国と同等の補償を行っている。なのに、大戦当時は日本人であった台湾の人びとには一切の補償もなく、うち捨てられてきた。その不平等に、強い憤りを感じずにはいられなかった。結局、上述のように政府は200万円という額(裁判で請求した金額の4割)を弔慰金としたのだが、同様の境遇にあった日本人の年金総額はその時点で1,600万円を超えていたはずだ。

戦争で死んだ人の命がたったの、たったの弔慰金200万円、腕や脚を失った人への代償が200万円。なんと台湾人を侮辱しているのだろうか。皇民化教育を受け、一視同仁だとか、天皇の赤子だとか、あとは国が面倒をみるといわれて戦争に行った人びとはさぞや無念なことだろう。

1995年には新たな動きがあった。台湾住民に対する戦争中の給料未払い分、軍事郵便貯金、郵便貯金、簡易保険、年金などの「確定債務」の支払いが始まったのである。終戦とともに支払いが凍結されていたこれらのお金は、台湾人元日本兵たちや遺族にとって大きな問題だった。それが、1995年10月から2000年3月末の間に、一律額面の120倍という金額で払い戻されたのである。その額、およそ128億円。ほかに、生命保険会社15社が同じく120倍で約17億円を支払った。

郵便貯金の残高は、千円前後が多かったという。終戦前、千円もあれば台北で家が一軒建ったというが、120倍の計算ならわずか12万円にしかならない。納得のいかない台湾人も多く、上述の高聰義さんは台北での抗議デモの先頭に立って歩いたと聞く。だが、政府の決定は覆らず、確定債務の支払いはすでに終了した。

[クリックすると拡大]

1984年に他界した夫(全永福/竹中武男)から裁判を引き継いだ妻の全阿味さん(布農族)。「夫は補償をもらったら新しい家でも建てよう、と言ってました。心残りで死んでいったようです」


後書き

話を聞かせてもらった元日本兵たちは、記事で記したように、ほとんどが大正時代の生まれである。わたしの父は大正11年生まれなので、つまり父と同じ世代だ。父は戦地には行っていないが、陸軍戦車隊の一員として終戦を迎えた。わたしがこの取材をした当時(1985年)にはもう亡くなっていたため、台湾人元日本兵について父子で議論を交わすというようなことはなかった。しかし、元日本兵たちへの取材を進めるにつれ、わたしは亡父のことを何度も思い出さざるを得なかった。

父はいわゆる頑固親父というタイプで、戦前の価値観が抜けきれない人だった。そのいっぽうで、わたしの高校時代は70年安保闘争、民主化等を要求する学園紛争のまっただなかにあり、いままでの権威や価値の問い直された時代だった。そんななかで古い価値観を押しつけてくる父に反発を感じ、衝突したのも一度や二度ではない。家族のありがたさにはじめて思い至ったのは、大学進学のために親元を離れてからである。

それが、30代のはじめに台湾に行ったことで、ようやく父の生きていた時代が理解できたような気がした。ここには父と同じ価値観の人びとがいる――実は訪台以前は、台湾人はみんな日本時代を否定するものと想像していた。大陸や韓国の人がそうだったからだ。ところが実際に来てみると、「戦前はよかった。それに比べていまの社会は……」と嘆く日本語世代の老人に出会う。天皇に批判的な人もめったにいない。「日本精神」という言葉にも驚いた。優れたもの、尊敬すべきものが《日本》精神と呼ばれているのである。

しみじみ感じたのは、時代には大きな「流れ」があることだ。戦前の人びとは、否応なくその流れに乗り、あるいは流されていくしかなかった。よほど信念のある革命家でもない限り、巨大な流れに逆らうことはできない。また、多感な時期に受けた教育は、年をとってもなかなか抜けないものだ。そして、戦後の日本がいかに変容してしまったか。いまの価値観で過去を断罪するのはたやすいが、自分がその時代を生きていたら、どう行動していただろう。父も自分も、ある特定の時代の流れに左右されたという点では同じではないのか――父の姿を思い起こしながら、そんなことを何度も考えさせられた。

この記事の文章と写真の一部は、『毎日グラフ』1985年8月25日号に「棄てられた兵士たち」の表題で掲載されたものである。2007年にネット公開するにあたっては、当時の取材テープやメモ、ポジフィルムを掘り起こして大幅に加筆修正した。関係者の多くはすでに鬼籍に入り、20年以上昔の取材をいま発表することに価値があるのか、迷いがないわけではない。ともあれ、若い人たちに読んでもらえたらと思う。この作品を、取材に応じてくださった皆さんと、お世話になった方々に――特に千葉泰介さん、楊紹南さん、張維商さん。 亡き父に、そして長年父を支えて息子たちを育て、いまは病床にある母に捧げる。(2007年9月脱稿/同年10月加筆 河野利彦)

[クリックすると拡大]

  • [ 主な参考文献 ]
  • ◎佐藤愛子『スニヨンの一生』文藝春秋 1984年/文春文庫 1987年
  • ◎古川勝三『台湾を愛した日本人―― 嘉南大圳の父八田与一の生涯』青葉図書 1989年
  • ◎台湾人元日本兵士の補償問題を考える会 編『台湾人元日本兵戦死傷補償問題資料集合冊 台湾・補償・痛恨』1993年
  • ◎伊藤 潔『台湾――四百年の歴史と展望 』中公新書 1993年
  • ◎蔡 徳本『台湾のいもっ子――日本語で書かれた戦後台湾本省人(いもっ子)の隠された悲劇』集英社 1994年
  • ◎司馬遼太郎『街道をゆく 40』朝日新聞社 1994年
  • ◎柳本通彦『台湾革命―― 緊迫!台湾海峡の21世紀』集英社新書 2000年
  • ◎杉江弘充『知っていそうで知らない台湾』平凡社新書 2001年
  • ◎河崎真澄『還ってきた台湾人日本兵』文春新書 2003年
  • ◎李 登輝『「武士道」解題――ノーブレス・オブリージュとは』小学館 2003年
  • ◎周 婉窈『図説 台湾の歴史』浜島敦俊 監訳/石川豪、中西美貴 訳/平凡社 2007年

[ top ]