北回帰線の町・嘉義から、バスで田舎道を40分、目指す雲林県北港鎮は媽祖(まそ)の町である。

媽祖とは、霊恵妃、天妃、天后、あるいは天上聖母とも呼ばれる航海の守護神である。

そもそも、台湾は移民の国である。台湾に新天地を求めて移住する人びとの航海は、想像を絶する困難なものであった。小さなジャンクに乗って台湾海峡を渡る人びとは、ひたすら媽祖の力にすがるほかなかった。

九死に一生を得てたどり着いた人びとは、航海の無事を感謝し、やがて定着した土地土地に廟を立てて祀った。中国の福建、広東といった、中・南部沿岸で信仰を集めていた媽祖は、こうして民衆の信仰の最たるものとして、台湾の地に根付いたのである。

北港には、台湾媽祖廟の総本山ともいうべき朝天宮がある。わたしの目的は旧暦3月23日(1982年は新暦4月16日)の媽祖の生誕を祝う祭にあった。北港入りしたのは旧暦の3月19日のことである。

媽祖は、960年3月23日、福建省湄州に生まれた実在の女性だといわれている。神通力をもって世人を救い、神女・竜女と呼ばれてあがめられていたが、987年9月9日昇天、神となって海上に姿を現し、海難から人びとを救済した。荒れ狂う海の上を、朱の衣をまとって飛び回ったという、若い女神の姿をあれこれと思い描くうちに、バスは北港に到着した。

町は、各地から集まってきた信仰深い人たちで埋め尽くされていた。ふだんは6万人ほどの人口が、何倍にもふくれあがって、活気とざわめきに満ちていた。進香期と称する旧正月から生誕祭までの期間に、ここを訪れる人は100万人を越すといわれている。

廟の前には人垣ができていた。そこで見たのは、童乩(タンキー)と呼ばれる一群の人びとである。彼らは陶酔状態に陥っており、刀や斧、金鋸などで、自らの体を傷つけて鮮血を流していた。いわゆる神懸かりというものらしいが、何とも異様な光景であった。廟のなかは、線香の煙とひといきれとで、息苦しいほどだった。参詣者たちは持参してきたご馳走を供え、篤い祈りを捧げていた。各郷、各家から媽祖像を携えてきた人びとは、香炉の上を通してから、主神の媽祖像と対面させる。こうすることによって、主神の強大な霊力を分身の媽祖像へ乗り移らせているのであった。

表では神轎の巡行が行われていた。神轎とは日本でいう御輿(みこし)である。提灯をもった子どもを先頭に、千里眼、順風耳、媽祖、そして阿弥陀と続く。神轎の後には、スピーカーをのせた小さな手押し車がついて、独特の雰囲気をかもしだす中国式吹奏団の賑やかな音楽を流していた。

祭りをいやがおうにも盛り上げるのは、3、40メートルごとに山と積んだ爆竹が、次々と炸裂してゆく音である。神轎が一基通るたびに爆発させるので、仕掛ける人も神轎の担ぎ手も、汗と煤にまみれており、よく見ると、彼らの耳にはみな栓がしてある。いたるところで雷鳴のような音が響き渡り、街は狂ったように騒然としていた。人びとのざわめき、喧しいほどのスピーカーからの音、そして凄まじい爆音が入り混じって、まさに祭りは最高潮に達していた。

日が暮れて、闇が濃くなるにつれ、廟周辺の屋台の裸電球が、一段と明るい光彩を放ってゆく。蚵仔煎、魚の胃袋の炒めもの、米粉(ビーフン)などの台湾料理が次々に平らげられていった。「来座、来座」という威勢のよい呼び声が夜遅くまで飛び交っていた。

廟の前を通りかかると、境内の石畳に大勢の人が横たわっている。宿に泊まりきれぬ人たちが、こうして境内に雑魚寝をするという。女性や子どもの姿も見受けられた。

旅社(旅館)では、三畳ほどの部屋で6人もの人が、折り重なるようにして眠っていた。そのなかのある年配の夫人は、屏東から3日がかりで歩いてやってきたという話を聞かせてくれた。この人たちの信仰のエネルギーは、一体どこから来るのだろうか。

この日床に就いたのは、午前3時をまわっていた。外では爆竹が鳴り続け、神轎がまだ練り歩いていた。この喧噪は、わたしが北港に滞在した6日間ずっとつづいていた。

河野利彦(撮影 1982年/文 2008年改稿)
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